
先日、ある会社を訪問したときのことだ。
社長と世間話をしていると、ふと「今日は●●さんが休んでましてね」と言われた。
なんてことない一言だった。
だから私も、「どうされたんですか?」と、何気なく返した。
だが、そのあとの話に、私は背筋が冷たくなる思いをした。
「実はね」と社長が話し始めた。
その日の朝、●●さんが連絡もなく会社を休んだ。普段はそんなことはない。礼儀正しく、何かあるときは必ず「今日は休ませていただきます」と事前に伝えてくる人だった。
心配になった上司が、仕事終わりに本人の自宅を訪ねた。
すると、玄関が開いていた。
「これはおかしい」と思って中に入ると、●●さんが床に倒れていたのだ。
意識はほとんどなく、すぐに救急車を呼び、何とか一命を取り留めた。
社長はこう付け加えた。
「本当に、あの上司が気づいてくれてよかった。もし気づかずにいたら…たぶん、死んでましたよ。」
私はしばらく言葉が出なかった。
それは決して、テレビドラマの中の話じゃない。
今この社会で、現実に起きていることだ。
そして、私はふと思ったのだ。
もし●●さんが、普段から遅刻がちで、連絡もせずに休むような「信頼されない人」だったらどうだっただろうか。
「またサボったのか」「よくあることだ」
そんな一言で流されていたかもしれない。
誰も気にせず、そのまま放置されていたら、翌日になっても誰も訪ねず、命は失われていたかもしれない。
この話は、単なる偶然の美談ではない。
もっと深いところで、組織や人間関係の“質”を映し出しているように思える。
信頼という名のセンサー
企業の中には、独り暮らしの社員がたくさんいる。
年齢を問わず、家族と同居していない人は意外と多い。
しかも、そういった人ほど、職場が唯一の“日常的なつながり”になっていることもある。
家に帰っても声をかけてくれる人がいない。
朝起きても「今日、具合悪そうね」と気づいてくれる人はいない。
となると、異変に気づく「最後の砦」は、職場でしかない。
だからこそ、職場は人の命を見守る“センサー”でもあるべきだと私は思っている。
だが、このセンサーはただそこにあるだけでは機能しない。
組織にいる人同士が、“ちゃんと見ている関係”でなければ、異変を異変として捉えられないのだ。
たとえば、あなたの会社にもこういう人はいないだろうか?
いつも時間ギリギリに来て、何も言わずに定時で帰る。
必要最低限の仕事はこなすけれど、他人と深く関わることもない。
急に休んでも「ああ、またか」と、誰も気にしないような人。
――彼が、倒れていたとして、誰が気づけるだろうか?
一方で、こんな人もいるかもしれない。
挨拶を欠かさず、何かあれば事前に連絡を入れ、
遅れるときには必ず理由を添えてくる。
普段から小さな気遣いや、ちょっとした声かけができる人。
――その人が、いつもと違えば、周囲はすぐに「おかしい」と感じる。
この違いをつくっているのが、「信頼」だ。
信頼は、単なる評価や好感とは違う。
日々の積み重ねで築かれる、“小さな信用の貯金”である。
信頼される人は、見てもらえる人だ。
見てもらえる人は、異変に気づいてもらえる人だ。
そして、気づいてもらえる人は、最悪の事態を避けることができる人でもある。
逆に言えば、信頼を損なう生き方は、
知らず知らずのうちに「誰にも気づかれない場所」に自分を追い込んでいるとも言える。
これはただ「いい人でいよう」と言っているのではない。
生きるために必要な、“つながりの設計”の話なのだ。
組織の目配り、心配り
この話は、決して個人の信頼だけで終わるものではない。
もう一つ、私たちが見逃してはならない視点がある。
それは、「組織が、どれだけ人を気にかける文化を持っているか」ということだ。
たとえば今回のケース。
上司が「あいつはまた勝手に休んでるだけだろう」と決めつけ、
特に確認もしなければ、どうなっていただろうか。
――きっと、命は助からなかった。
たまたま、上司が「何かおかしい」と感じ取り、
仕事終わりに家まで足を運び、そこで倒れていた本人を見つけた。
これは「奇跡」ではなく、“人を気にかける文化”が生きていた証拠だと思う。
こうした文化は、マニュアルではつくれない。
会社には就業規則もあるし、勤怠管理システムもある。
でも、「システムが見つけてくれる」「ルールが守ってくれる」では、人の命は守れない。
最後に人を守るのは、人でしかない。
「今日、あの人の顔を見ていないな」
「なんだか様子がおかしいな」
「最近、ちょっと元気がない気がする」
こうした“ささいな違和感”に気づく力こそが、組織の温度を決める。
そして、その違和感に対して、「まあいいか」と流すのではなく、
“動くこと”ができるかどうかが、文化を形づくる。
では、そうした文化をどう育てるのか?
それは、日常のふるまいの中でしか育たない。
部下や社員の話を、きちんと目を見て聴いているか。
「困ってないか?」と、言葉の裏にある感情まで気づこうとしているか。
相手が発した“サイン”を受け取ろうとする姿勢があるか。
経営者や上司が、「人として」部下に関心をもって接しているかどうか。
それが、いざというときの行動として現れる。
文化は、言葉ではなく、「背中」で伝わる。
もしも、組織に「無関心」が蔓延していたらどうなるか?
何かあっても「自己責任」で済まされ、
誰もが「私の仕事じゃない」と見て見ぬふりをするようになる。
人と人との間に“無言の壁”ができ、それぞれが孤立していく。
そのとき、信頼も、助け合いも、生まれようがない。
「人を気にかける」というのは、
業務でも評価でもない、“人間としてのふるまい”だ。
会社という場で、何を大切にしているかが、
こうした出来事を通じて、如実にあらわれる。
――人を大切にする会社かどうか。
それは、給与明細ではなく、「人が困ったときの行動」でわかる。
まとめ:信頼と文化が命を救う
今回の話は、単なる“良い話”では終わらない。
信頼があり、気にかける文化があったからこそ、命が救われた。
つまりこれは、「奇跡」ではなく、「普段の積み重ねが起こした必然」だ。
人は一人では生きていけない。
けれど、職場という“人が集う場”で、誰かが誰かをちゃんと見ていれば、
その人の命を守ることすらできる。
大切なのは、仕事ができるかどうかではない。
「誠実であるか」「礼儀正しくあるか」――
そして「相手に関心を持っているか」。
それは、ただの“マナー”ではない。
時に、生き延びる力であり、人と人をつなぐ命綱でもある。
仕事の能力は、後からでも身につく。
けれど、信頼と文化は、日々の言動からしか育たない。
だからこそ、私たちは見直したい。
「組織の温度」を、そして「自分自身の姿勢」を。
人を大切にする職場は、強い。
そして、温かい。