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苦難の人生だとしても、神様は乗り越えられない試練しか与えない(中村久子女史の人生)

人は生きていれば、誰しも嫌なことから逃げたい、楽になりたいと思うことはあるでしょう。また未来を見れば不安ばかりしかない。

人は不幸があるとネガティブになり、心が折れてしまうと自ら命を落とされる方が見えます。生きる阻害要因として色々理由はあると思いますが、逃げたい楽になりたいと言うことが、自ら命を落とすのではなく、他に方法はなかったのですか?と言いたいのです。

今回、皆さんに知ってほしい方がいるのです。知っている方は知っていると思いますが、私はこの方を題材に、多くの人に教育してきました。

なぜ、題材にしていた方をこのブログで説明するのか?それは「生きること」の素晴らしさ、そして「苦難の人生だとしても、必ず幸せになる」ということを知ってもらいたいからなのです。

➢中村久子女史

中村久子女史をご存じでしょうか。この方は、何も偉大な事業を成したとか、発見・発明をしたと言う方ではありません。「生きる」ということを懸命に求めて実践し、最後には悟りの境地まで達した方と言われています。

その中村久子女史は、3歳の時に“しもやけ”から突発性脱疽という病(肉が焼け骨が腐る病気)にかかり、そこから壊死を起し、それがどんどん広がるのです。当時、その唯一の治療方法が切断手術だった為、両手両足を失うのです。

両手両足を失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も自分で切り開いて生き抜いた人です。「人間としてどう生きるか」を求め続けた中村久子女史の生涯を紹介します。

➢幼少期

中村久子女史は明治30年11月、飛騨高山で生まれました。父は畳職人で釜鳴栄太郎、母はあやの長女として生を受けました、幼名は「ひさ」。弟には栄三が見えます。2歳の時に足の甲に凍傷を起し、両方の足から順次両腕と移り、凍傷の影響で高熱と手足が黒く焼ける痛みを、昼夜問わず襲ってくるのです。

ある日、久子女史の激しい泣き声に、母・あやが駆け付けると、久子女史の傍らに白いものが転がっていたのです。その転がっていたものが包帯を巻いた手首だったのです。

病院に担ぎ込まれた久子女史は、命を優先するために両手両足を切断しました。手術後の痛みは治まらず、昼夜関係なく泣き叫ぶため、近所に気兼ねし、借家を転々し、久子女史をおんぶして、大雪の日でも街中をさまよい歩くのです。

久子女史が7歳の時、夏のある日、父・栄太郎が急性脳膜炎によって急逝するのです。母・あやは生活も苦しく栄太郎の死のショックでありながらも、治療費や借金を返済するために、ご自身の母親に、久子女史を預けて働きに出るのです。2年後にはそこで知り合った人と再婚をするのです。

しかし残念ながら母・あやと再婚した男性は良い義父とはいえず、久子女史の亡き父・栄太郎と同じ畳職人でしたが、性格は陰湿、来客がきたら部屋に閉じ込めることは日常茶飯事で、いつしか虐待までするようになったのです。傷ついた両手両足の痛さと義父の虐待のストレスで久子女史は9歳にして目が見えなくなってしまったのです。

母・あやは、この時ほど失望し闇夜の中、久子女史をおんぶして、川の上流に立ち尽くし、死を覚悟するのですが、「母(かか)様、こわいよぉー」と泣く久子女史の声に我に返るのです。(この失明は治療の甲斐あって、数カ月後には元に戻ります)

➢久子女史が一人で生きるために、心を鬼にする母

今まで、溺愛していた母親でしたが、他人に頼れない現実を目の当たりにし、私が死んでも一人で生きられるように、厳しく躾をするように誓ったのです。

その厳しさは、久子女史曰く「これが本当の親か」と思ったそうです。口で筆を咥え字を書く、歯や唇で糸を通す、編み物をする、着物を縫う、食事に至るまで誰の助けも借りず、全て一人でしなければいけません。

それが出来なければ、母・あやは「出来るまでやってみること、やれないことは、やって見ないからだ」「出来ないのは横着だからです」と決して諦めることは、一切許さなかったのです。その甲斐あって久子女史は15歳で立派に単衣を縫うまでになったのです。

久子女史の回顧録に、「一つ一つ覚えるのに血のにじむような努力でした。あるとき、口で縫った人形の着物を、近所の友達にあげると、その子の母はこんな汚い物と川に捨ててしまいました」

「口で縫い、口で糸をしごいて仕上げた人形の着物は、つばだらけになっていたのです。つばだらけにしてはいけない、ぬらさぬように、というのは悲壮なまでの念願でした。ぬれない裁縫ができるまでには、13年間の長い年月がかかりました」と記しています。

➢屈辱ではあるが、生きるために見世物小屋で独り立ち

久子女史の治療費はかかり、借金が膨らんでいたため、二十歳を前に自ら見世物小屋に入ることを決めるのです。見世物小屋では「だるま娘」として芸を披露するのです。芸を披露すると言っても、久子女史は人に見せる芸なんて持っていないので、母親に厳しく躾けられた裁縫や切り紙細工、口書き、編み物などを見せることにしたのです。

 地味ながら評判を呼び、芸を受け入れてくれることで初めて差別されることがない生活を感じるのです。後に人生に影響を与える言葉を思いだすのです。その言葉は習字の先生か言われた言葉、泥沼の蓮になれ(※意味は汚れた環境でも染まらず清く生きること)という言葉であります。

しかし、その幸せは長くは続かないのです。見世物小屋で働いていた小屋が経営不振になり、久子女史は違う見世物小屋で働くのです。そこに待っていたのは、目の肥えたお客の言葉や、仲間からの心ない言葉でした。ここで抵抗するにしても帰る家も場所もない、ここで生きていくしかないのです。そのような耐え難い状況の中、1920年、母・あやの悲報を受けるのです。

今まで恨んだ母だったけど振り返って見れば若くして夫に先立たれ、手足のない私と借金を抱え、自分が死んだ後にまで、1人で生きていくために心を鬼にした母。家を離れ旅立つ日、姿が見えなくなるまで見送ってくれた母、本当は一番私の事を守ってくれていたのは母の愛ではなかったのか、そう思ったらとめどなく泣いたのです。

➢座古愛子女史との出会いで感謝する事を知る

母の死を境に大きく人生が変わっていくのです。久子女史は自身の半生を手記したものを、雑誌に応募し当選したのです。また同じ見世物小屋で働く男性と結婚し独立、子供まで恵まれ人並みの生活を得るのです。だが結婚から3年後、腸結核で旦那さんが亡くなるのです。お金にも生活にも行き詰った久子女史は、人から勧めるがまま、母親のように同じように、望まない再婚し子供までもうけるのですが、再婚してから2年後、旦那さんは亡くなってしまうのです。

立て続けで人が亡くなるという悲壮感、子供二人を育てていかなくてはいけない将来への不安、鏡を見るたびに眉をひそめ、運命を呪ったのです。そのような中、雑誌に紹介された一人の女性に強く引き付けられるのです。名前は座古愛子女史 17歳でリューマチにかかり、首から下は動かない重度の女性、30年間寝たきりですが、女学校の購買部で寝た姿で働くことを紹介されていたので、いてもたってもいられなくなった久子女史は、座古愛子女史にあいに行ったのです。

久子女史は、輝いた顔とやすらかな眼差しの座古愛子女史に息を飲み、また彼女の身寄りがなく、久子女史と同じ苦しみや恨みの毎日を送っているのかと思うきや、逆に感謝の毎日を送っている事を知り、今まで親を恨み、両手両足がない不自由な体をどれだけ嫌だったのかを恥じ入るのです。

➢恨む人生から感謝する人生へ

座古愛子女史と会って以降は、人生を恨んだり、自暴自棄になることはめっきりなくなって行くのです。「私は子供達からこんなに幸せを受けている、私が母に与えたものは、苦しみと悲しみだけだった」とかつて母を恨むことから大きな変わりようでした。

昭和8年、35歳の久子女史は、一座で働いている中村敏雄氏と結婚、ようやく安らぎの家庭生活を取り戻すのです。興行生活の傍ら家事にいそしむ毎日ですが、そのような中、来日したヘレンケラーと対面することになったのです。久子女史は縫いあげた人形を抱え東京で対面するのです。

ヘレンケラーは対面した久子女史の肩を触り、その肩から下の方になでおろし、ヘレンケラーは眉をひそめ、久子女史を抱きしめ「私より不幸な人、そして偉大な人」と言葉にしながら、お互いに涙をこぼすのです。

久子女史は、これを機会に芸人生活をやめ、全国に講演活動をするようになったのです。ご自身の半生を包み隠さず苦労話をするのですが、壇上から話をする、幾ばくかの講演料をもらう、この繰り返しの行為が、久子女史が思っていることが心の壁となり、ご自身のことが嫌になったのです。

そうした中、一冊の本に出合います。 その本は親鸞聖人の歎異抄です。「人は知恵や能力、努力だけでは救われない、その無力さを知り自然のあるがままの姿で仏の手に委ねた時、はじめて人は救われる」本を読み終えた時に、気付いたのです。「今まで逃げ場もなく、絶体絶命の中で、生き抜いてきた自信、その自信こそ傲慢であり、その自信こそ慢心の正体なのだ、ここまで自分に教えてくれたのは両手両足のないこの体なのだ」とあるがままの姿を受けいれたのです。

講演活動をやめ、あれほど嫌だった見世物小屋に戻っていき、「あれが自分に与えられたものであり、死ぬまで芸人でいよう、そう考えた時、今まで育ててくれた見世物小屋の生活がとてつもなく宝にみえ、自分に冷たく、つらく当たった人達こそ、自分を磨いてくれたのだ」と、大きな波がとめどなくよしよせる、感謝の気持ちが出てきたのです。

目の前に開けた世界、久子女史はこのように言ったのです「あらゆる苦しみ悲しみと、取っくみ来った私にも、今ようやく苦難の夜が明けて 輝かしい微笑みの朝が訪れた、私は今、明るい歓びに浸りながら苦あればこそ、また滋味ゆたかな人生を静かに省みつつ味わっている。人生に絶望なし、如何なる人生にも決して絶望はない」ここで初めて身体障害者たちを励ますための全国講演をすることを再開したのです。

➢中村久子女史の肉声より

「生活は相変わらず貧乏でも、長女には孫ができ、次女は傍にいる いつも優しい夫が背負ってくれる 長い長い道のりを経て安らいだ境地でした。自分でいきるとるのではない、生かして下さる方がある、おかげ様、そのおかげ様で私自身、こうして生かして頂いているわけでございます」

亡き母への想いをこめ非母観音像を建立。

昭和43年3月19日、自宅において波乱に満ちた生涯に幕を閉じるのです。享年72歳。

娘たちに遺言

自分の死んだ後、自分の体を医学に役立てるために献体するよう遺言したのです。

「ある ある ある」 中村久子

さわやかな 秋の朝
「タオル取ってちょうだい」「おーい」と答える良人がある「ハーイ」とゆう娘がおる
歯をみがく、義歯の取り外し かおを洗う

短いけれど 指のない まるい つよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある 何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある さわやかな 秋の朝

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