
――空海『十住心論』に学ぶ“心の段階”という視点
「なんで、こいつはこんな当たり前のことがわからないんだ」
「何度言っても、部下の意識が上がってこない」
「どうして、こんなにも話が噛み合わないのか……」
後輩や部下を指導していて、そんな風に感じたことはないだろうか。
だが、その“違和感”の根っこには、単なる能力差ではなく、「心の段階」の違いが潜んでいるかもしれない。
その視点を与えてくれるのが、弘法大師・空海の『十住心論』である。
空海は、人間の「心のあり方」を十段階に分けて論じた。
たとえば、欲望のままに生きる段階から、利他や真理の追求に目覚める段階まで――。
この考え方を、現代の組織や人材育成に応用してみるとどうだろうか。
あなたが「なぜこんな当たり前のことが伝わらないのか」と感じる時、
相手の“心の段階”が、まだそこに届いていない可能性がある。
それは、決してその人がダメなのではない。
まだ「そこまでの視座」に至っていない、というだけのことだ。
たとえば、「自分の給料分だけ働けばいい」と考えている部下に、
「チームとしての成果を考えろ」と言っても、噛み合うわけがない。
それはまるで、九九を覚えていない子どもに、微分積分を教えるようなものである。
重要なのは、相手の“今いる段階”を見極めること。
そして、その一段上の「心の階段」を共に上がれるよう、丁寧に導くことである。
リーダーの仕事とは、正論をぶつけることではなく、心の成長を支えることなのだ。
その視点を与えてくれるのが、弘法大師・空海の『十住心論』である。
『十住心論』とは――人の“心の成熟段階”を10層で捉える思想
空海は、人間の心の成熟を10の段階に分けた。いわば「精神の成長階段」である。
これは宗教的修行のための理論というよりも、人間理解と育成のための深いヒントを含んでいる。
段階は以下のように進む:
- 異生羝羊心(いしょうていようしん)
欲望のままに生きる、動物的本能の段階。善悪や目的すらない。 - 愚夫顛倒心(ぐふてんどうしん)
損得や欲に支配され、目先の利益に振り回される心。 - 嬰童無畏心(ようどうむいしん)
勝ち負け、競争に価値を見出し、虚栄心や名誉欲に支配される段階。 - 名称唯識心(みょうしょうゆいしきしん)
ようやく道徳や秩序・ルールを理解し、守る意識が出てくる。 - 破悪修善心(はあくしゅぜんしん)
他者への配慮や善悪の判断ができるようになり、利他心が芽生える。 - 厭離権仮心(えんりごんけしん)
形式や規範に縛られず、本質や意味に目を向け始める段階。 - 歓喜忍辱心(かんぎにんにくしん)
自己をコントロールしつつも、内に喜びを持ち、困難も受け入れる心。 - 一乗真実心(いちじょうしんじつしん)
あらゆる他者を尊重し、対立や矛盾の中に調和を見る深い心。 - 極無自性心(ごくむじしょうしん)
自他の境を超えて、すべてを一つの流れとして見る悟りの心。 - 秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)
人知を超えた智慧と慈悲に生きる、仏の境地。いわば完成された人格。
“話が通じない”のは、「フロアが違う」からかもしれない
たとえば、あなたが「5階」から語っているとしよう。あなたはもう、ある程度道徳や規範を身につけ、さらに他者のために何かを成そうという“利他の意識”で物事を考えている。部下や後輩の成長を願い、どうすれば本人のためになるか、組織全体にとってプラスになるかを考えながら言葉を投げかけている。
だが、相手が「2階」にいたとしたらどうだろうか。
2階にいる人は、まだ自己保存や目先の損得に意識が強く引っ張られている段階だ。「給与はいくらか」「自分が得するか損するか」「怒られないようにどう振る舞うか」という視点で物事を見ている。
その状態で、いくら高い理想や社会的意義を語っても、届かないのは当然だ。
見えている景色が違うのだ。
高層ビルで例えるなら、あなたは5階から遠くの街並みを見て話している。だが、相手は2階で自分の足元や隣のビルの壁しか見えていない。視野の高さが違えば、関心も目的も違ってくる。
この“フロアのズレ”に気づかないまま、「なぜ伝わらないんだ」「こんな簡単なことが理解できないのか」と嘆くのは、まるでフランス語で話しかけて、相手が日本語しかわからないのに「なんで理解しないんだ」と怒っているようなものだ。
「相手の階層に降りる」ことは、リーダーの責任
ここで重要なのは、“伝わらない”ことを嘆くより先に、相手の階層に意識的に降りていくことだ。
人はそれぞれ、自分の“必然”の中で生きている。2階にいる人も、過去の経験、家庭環境、社会との関わり、仕事での成功体験や失敗――そうした背景があって、今その段階にいる。
つまり、その人は「まだ」2階にいるだけで、決して劣っているのではない。
リーダーの役割は、その「今いる階」を見抜き、そこに合わせた言葉を選ぶことだ。たとえば:
- 2階の部下には、「理想」ではなく、「現実的なメリット」や「自分ごと化できる損得」で語る。
- 3階にいる部下には、「競争心」や「成長への期待」で火をつける。
- 4階以上のメンバーには、「組織の意義」や「仲間との連携」に語りかける。
そのように、**心の階層に応じた“翻訳力”**こそ、現代のリーダーに求められる重要なマネジメントスキルなのだ。
自分が“どの階”にいるのか、見失っていないか?
もうひとつ、忘れてはならないのは 自分自身の「現在地」 だ。
私たちはつい、「部下に伝えた」「指導した」と言いながら、自分がどの“フロア”からものを言っているかには無頓着になりがちである。
意外なほど多いのが、自分は5階や6階にいる“つもり”になっているケース だ。
――たとえば、「理念が大事だ」「会社の目的に立ち返れ」と語っている自分。
一見、5階(他者への思いやり)や6階(調和・利他)の境地に立っているように思える。だがその実、心の奥底には「相手を従わせたい」「自分の方が正しい」という、**3階の“優越欲求”**が潜んでいることがある。
この“フロアの錯覚”は、非常に危険だ。
なぜなら、自分は「伝えている」と信じているのに、相手には「押しつけられている」としか感じられないからだ。
「正しさ」は時に、相手を無言のうちに追い詰める“圧”にもなる。
「理念」は時に、相手を“支配する道具”にもなる。
だからこそ、我々に求められるのは、自己点検の視点である。
「自分はいま、どの心の階層から話しているのか」
「本当に相手の心を見ようとしているか、それとも、自分の正しさを証明しようとしているだけではないか」
ときに謙虚になって、“一段、二段と自分を下から見直す”ことが必要だ。
自分の足元を確認し、無意識の傲慢を手放さなければ、いくら高尚な言葉を並べても、それは誰の心にも届かない。
指導とは「引き上げる」ことであり、「寄り添う」ことである
最終的に、私たちリーダーが目指すべきは、部下や後輩が“自らの力で”心の階を上っていけるようになることだ。
一時的に言うことをきかせるのではなく、相手が内側から「理解し、納得し、行動できる人」に育つこと。それが本当の意味での「成長支援」だ。
ただし――ここに、ひとつの大きな落とし穴がある。
それは、リーダー自身が「正しい方向に導こう」「上に引き上げよう」という意識が強すぎるあまり、
知らず知らずのうちに「上から目線」になってしまうということだ。
多くのリーダーがやりがちなのが、「自分は高い階にいる、だから下の階の人を引っ張り上げよう」とする態度。
たとえば、3階にいる部下に対して、6階からアドバイスを与えても、相手からすればこう感じるだろう。
「上から何か言われてるけど、自分には関係ない世界の話だな」
「分かってくれていない。理解しようともしていない」
つまり、「正論」が「拒絶」につながってしまう。
それは、教える側の“心の姿勢”が相手に伝わっているからだ。
一度、こちらが階段を降りること
本当に人を導くリーダーとは、一度階段を降りていける人である。
相手がいる場所――たとえば2階――まで自分が降りていき、その階から見える景色を「共に眺める」。
「君の立場だと、こう見えるんだね」と、その現実を一緒に感じる。
この“共有”こそが、信頼の土台になる。
そのうえで、「実は上の階からは、こんなふうにも見えるんだよ」と優しく伝える。
それが“引き上げる”ということだ。力で無理やり連れて行くのではなく、本人の気づきと意欲を引き出す。
そして、相手が一歩を踏み出すその瞬間、こちらは「支える側」にまわる。
階段を上がるには、自分の脚で踏ん張るしかない。
私たちができるのは、その足元を支えること、必要なときに手を添えること、転びそうになったときに受け止めることだけだ。
育成とは、「待つこと」「信じること」「その人の歩幅に合わせること」
人は、それぞれのタイミングで成長する。
花が咲く時期が違うように、誰かにとっての“気づき”の瞬間もまた、今ではないかもしれない。
だから、焦らないことだ。
急がせないことだ。
そして、**「この人は必ず成長する」**と、心の底から信じることだ。
育成とは、こちらの満足のために部下を動かすことではない。
相手の人生に敬意を払い、その人のペースと理解の深さを尊重しながら、共に歩くことである。
空海の『十住心論』が示す「心の階段」の思想は、
こうした育成の本質に静かに、しかし力強く光を当ててくれる。
心を高めるとは、他者を従わせることではない。
心を通わせ、信頼のうえに成長を共にすること。
それが、現代に生きる私たちリーダーに求められる姿勢ではないだろうか。
最後に――「心を見抜く目」を持てるかどうか
私たちが「この人とは話が通じない」と感じるとき、無意識に相手を“能力不足”だと決めつけていないだろうか。しかし、それは本当に相手の問題なのだろうか。相手が今、どの階にいて、何を見て、何を信じ、何に不安を感じているのか――それを理解しようとする前に、私たちは“見えた表面”だけで判断していないか。
相手が“話の通じない人間”なのではなく、
今、その人にとって「何がリアルか」――その現実を、私たちは見ようとしているか。
この「心を見抜く力」は、理屈や知識だけでは身につかない。相手の言葉にならない感情に、じっと耳を傾けられるか。言葉の奥にある迷いや怒り、寂しさや葛藤に、心のセンサーを向けられるか。つまりは、「どの階の、どの窓から、相手は世界を見ているのか」を感じ取れるかどうかだ。
それができて初めて、対話は通じる。
それができて初めて、育成は始まる。
それができて初めて、組織は“人”によって動き始める。
これは、単なる人材マネジメントのテクニックではない。
リーダーに求められるのは、「理屈で人を動かす力」ではなく、「心を読み取り、心を束ねる力」なのだ。
空海の『十住心論』は、まさにそこに光を当てている。
十の階を登っていくとは、他者の心を理解しながら、自分の心もまた磨き続けることだ。その道は、指導者自身の“人間修行”でもある。リーダーとは、人の心の深さを知り、自分の心の浅さを知る者であるべきなのだ。
人を育てるとは何か。
その問いに、すぐに答えを出そうとせず、問い続ける姿勢こそが、真のリーダーシップなのだ。